公正の実現と不正の否定は、伝統的なイスラームの社会生活において特に重要視されていたとされる。伝統的社会においては、個々人がシャリーアを遵守し、イスラーム的価値観にのっとった公正を実現すべきものとされた。公正は商取引の規制にまで及んでおり、シャリーアに適合しない商取引は不正とみなされる。
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また、ザカート、サダカなどの喜捨の制度によって弱者を救済することは、現世の罪を浄化し、最後の審判の後によりよい来世を迎えるために望ましい行為とされ、イスラーム社会を支える相互扶助のシステムとなっている。社会的弱者に対する救済はイスラームの教えにおいて広く見られ、一夫多妻制のシステムも、建前の上では母子家庭の救済策であったとされている。
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品行を保ち、人間の堕落を防ぐためとして、自由を制限する教えもみられる。保守派ムスリムが女性に対して家族以外の男性に対して髪や顔を隠すよう求めていることはよく知られているが、これは性欲から女性を保護する目的が本旨であると保守的イスラムを擁護する論者は主張している。
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このためキリスト教同様婚前交渉を禁ずる教派が殆どだが、実際には国家や個人、世代によって戒律を遵守するか無視するかは多様である。酒は戒律上禁止されているとする教派が主流であるが、それは飲酒が理性を失わせる悪行であると考えられているからである。しかし、コーヒーやタバコのように、イスラム教の教義が確立後にイスラーム社会にもたらされた常習性や興奮作用のある嗜好品については、酒と類似のものとして規制する説も歴史的には見られたものの、今日では酒と異なって合法的なものとみなされることが殆どであり、いずれもムスリムの愛好家は非常に多い。また酒にしても、禁令とは裏腹に、イスラーム社会で広くたしなまれていたことが知られている。トルコ、イランなどではイスラム化以降も盛んに飲酒が行われた。
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「清浄」に対する強い意識も特色であり、動物の死肉や血など不浄なものが体に付着したまま宗教的行為を行ってもそれは無効とみなされる。また、礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か日光で消毒された砂で清めなければならないとされている。 総合的に見ると、やはり中東地域(特にイラン、サウジアラビア)から離れるほど、一般的に律法としてのイスラームの教えは緩和されている。
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[編集] 教団組織
イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが平等に参加する水平で単一の組織からなっていると観念されることが多い。
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従って、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能を有する「聖職者」は建前の上では否定されており、これが他宗教に見られない特徴と主張する人間もいる。このことから「イスラムに『教皇』はいない」と言われることもある。しかし、六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラーム知識人)が存在するため、実質的には聖職者が存在するともいえる。宗教的ヒエラルキーには教派による違いも存在している。
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ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学、神学など、イスラームの教えに関する様々な学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官(カーディー)、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師(イマーム)、宗教的な意見(ファトワー)を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示すムフティー、イスラームの諸知識を講じる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導く役割を果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、建前の上では聖職者ではない。そのためキリスト教や仏教などと違い社会的な特権(税金の免除等)は無いがため、普段はほかの職業の就いている事も珍しくは無い。しかし宗教上は他の宗教における聖職者と同様の役割を果たした。このため、マスコミなどではしばしばウラマーは「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。
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[編集] 歴史
[編集] 始原
西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカで迫害されたため、622年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。
ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。
[編集] スンナ派とシーア派の分離
ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していったことが最も大きな要因とされる。
しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。
[編集] イスラーム帝国の時代
8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけに殆ど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。
また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ、東アフリカ、インド、東南アジア、中央アジア、中国などへ旅立っていったので、しだいにイスラム教の布教範囲は広がっていった。
また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。
しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。
[編集] 近代
近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。一方で順調にリベラル思想を身につけイスラムの改革を行う人々も多数出現し、イスラームは前近代にも増して多様な実態を持つことになった。
[編集] 他の宗教との関係
イスラームは先行したユダヤ教、キリスト教等から大きな影響を受け、またシーク教やバハーイー教の成立に大きな役割を果たした。
[編集] ユダヤ教との関係
ユダヤ教はアブラハム系3宗教の根本ともいえる宗教であり、イスラームに対しても強い影響を与えた。ムハンマド自身当初は自分の信仰をユダヤ教やキリスト教の延長線上にあるものとして捕らえており、独自の宗教を開くという意図はなかったとも言われている。イスラームの立法的側面は、ユダヤ教のそれを受け継ぎ簡素化させたものであるとされる。
クルアーンにはユダヤ教の指導者たちが預言者として記されており、旧約聖書の事跡をムハンマドなりに解釈したものも記されている。
ユダヤ教徒はイスラーム教徒にとって、同系の宗教を信ずる「啓典の民」であるという側面と、イスラームを受け入れず「劣った」教えにしがみつくおろかな者たちであるという側面が存在している。
[編集] キリスト教との関係
キリスト教もまたイスラームの成立に強い影響を与えた。ムハンマドはナザレのイエスを使徒であり預言者であるとしており、クルアーンにも新約聖書に由来するイエスの物語が記されている。また、ムハンマドに啓示を与えた天使ジブリールは、キリスト教においてマリアに受胎告知を行った大天使ガブリエルと同一と考えられている。ただしキリスト教主流派と違い、クルアーンではイエスは単なる人間であり、神の子ではないと明言されている。
キリスト教徒もまた、「啓典の民」としてクルアーンに記されている。